結局、最もモテるのは顔が整っている人。なぜ顔がキレイに整っている人がそうでない人に比べてモテるのか、分かりますか?
生物としての本能が、”遺伝子を増やし拡散する事”と”生存する事”にあるならば、容姿よりも肉体的に強い人や、リーダシップの取れる人、健康的な人、賢い人。つまり生存に関わる能力がモテに一番重要な要素なのではないか?(←こういう人もモテますけど)
だけど特に最近は、ローキック一発で足が折れそうな男でも、夏に日向なんか無理そうな軟弱野郎でもキレイな顔をしている男が一番モテている(ように感じる。)。本来であればジャイアンのような突出して生存力が高い奴が最もモテるべきじゃないだろうか。
私はこの答えを持っている。社会が成長して、肉体的に強くなくても賢くなくても生存に影響が無く、次世代をきっちり育て残せるのであれば、ニーズが薄れ、そこにモテニッチ(モッチ)が生まれる。生存出来るかどうかは個人の能力では無くなったのだ。この空いた二ッチに台頭したのが顔が整っている奴ら。元々潜在的なニーズはあったのだろうと思う。恋愛感情抜きにしても誰だって汚いよりキレイなのがいい。
一度、顔が整っている奴がモテ始めると、その流れは止められない。生存力にニーズが無い今、遺伝子を増やして拡散させられる能力が高いのは顔が整った奴だからだ(つまり顔がキレイな奴に×××のチャンスが多い流れが出来てしまえば、その子供も遺伝子を残し拡散できる能力が高い事と同義になり、当然モテの方向性は傾倒して行き、流れは加速する)。私はこれを「一度その流れが出来たら止められない現象」と名付ける。
どうだろうか。
同士のテロにより顔が整った奴の大量絶滅が起きた時、空いたニッチを埋めるのはあなたかも知れないのではないだろうか。
結論として私が言いたいのは、「なぜ芝は素敵で、雑草は許せないのだろう。」という事。雑草はこんなにも生命力に満ち溢れ、多様な生物を受け入れる広い懐があるのに。
さて、今回は外講歴史シリーズの第2弾。芝と畑と植栽ゾーンの製作を振り返り記事にします。第一弾はこちらをどうぞ→外講DIY ハードウッドで作るアプローチ
上の写真は初期の家の庭です。
アプローチによって、通路は確保できましたが、庭の大部分は写真ような「上原か」ってなくらいの雑草魂状態。植物差別はしたくないのですが、やはり芝の庭に憧れます。
芝は、雑草の根っこや石を取り除き、その上に植えるそうです。
という事で、かなりの石の埋没量を誇る我が庭では、庭の表層を一度ひっぺがえして、ふるいに掛けていらないものを取り除く必要があります。
地面を30-40cm程掘って、土は一輪車に乗せて庭の隅に運んで山にしていきます。ある程度土をさらったら、山の土を少しづつフルイに掛け、雑草の根や石と、土に分離していきます。掘る土は固く、重く、フルイの作業は前かがみで行うので、体にはとても負担が掛かります。約160m²分の面積に対するこの作業は途方も無く、気が遠くなりました。この作業だけで期間としては2年掛かりました。
芝が施工されている所と、掘った所が明確に分かれている写真です。芝が良く伸びているのは、植えてからワンシーズン経過しているからです。
石を取り除いた土は庭に戻し、水平に均します。さらに大きなベニアを乗せて、自分もその上に乗り、しっかりと上から圧力をかけます。土をしっかり固めないと芝を植えてから、その上を歩いた時に、地面がへこんでしまいます。実際、我が家の芝はボコボコです。
芝は姫高麗芝をつかいました。ヨーロッパの芝は冬も枯れず、見た目が素敵ですが、涼しい気候に適しており埼玉の夏の気候では生育が無理か、とても手が掛かるようです。一方、和芝である姫高麗芝は日本の気候に適しているそうです。
あまりに作業が長期に渡っているので、途中で浮気して畑などを作りました。畑の周りは表層だけセメントで囲い、それっぽい石を買ってきて乗せて飾りました。
これは植栽ゾーンです。写真の手前側はオレンジの砂利を引いた畑への通路です。家への通路はハードウッドで作ったのですが、これもまた大変な作業で、もう嫌だったので、石を敷いただけの通路になりました。
これが芝施工完了後の写真です。手前側は土のままですが、ここには後でウッドデッキの地盤にする予定がある為。畑の隣にアプローチ作成であまったハードウッドを使って、庭から出た枯葉や枝をすてる場所を作りました。畑に面しており、この枯葉コンポストから土壌生物の動きによって養分が畑に回るようにしてあります。
俯瞰のイメージはこんな感じです。